New Engeneering Progressive LC.
1972年に発足したNEP工業会は、50周年を迎えました。これを記念して草創期から成長期、現在までの長い歴史の中で尽力いただいた株式会社九コン取締役会長の下瀬博貴様への現地インタビューを企画。これまでの活動やご苦労されたこと、印象的な出来事、歴代の会長や会員の方々との思い出などを語っていただきました。
インタビュアー:
和木 晴彦(ケイコン株式会社)/ 上田 哲平(小倉セメント工業株式会社)
1950年11月11日生まれ
下瀬会長は、1986年(第15期)に小委員会に初めて参加
株式会社九コンは1972年発足当時のチャーターメンバーである。下瀬会長は運営委員、運営部会長を経て、2001年(第30期)~2013年(第42期)まで副会長、2014年(第43期)~2019年(第48期)まで顧問を歴任されました。
—下瀬さんがNEP工業会に入会したのはいつ頃でしたか。
もともと父がNEP工業会の創設時から入会しており、34、35歳のときに「そろそろ業界に出て勉強しなさい」と言われ、運営委員として参加しました。ちょうど会員の世代交代が始まった時期で、私が一番若かったですね。荒川専務や黒川専務、大月専務の輪の中に入れていただき、会合に参加したり、ゼネコンをはじめとする様々なお客様先に同行したり、とても可愛がってもらいました。若輩である私の意見も聞き入れ、丁寧に対応していただいたことを覚えています。荒川専務はお酒が強く、2次会、3次会にも同席していろんな経験をさせていただきました。
—入会時は、どのような状況だったのですか。
NEP工業会が発足したのは1972年。SPブロックと棚板式ウォルコンという画期的な商品を扱いたいと全国から17社が集まり、積極的に商品勉強会や技術部会を行っていました。当時はパソコンの計算速度が遅く、CADもない時代。会員の大半がケイコンさんから図面を見せていただき、最新ノウハウを勉強させてもらいました。
—下瀬さんはどのような活動をされていましたか。
私は1986年、36歳からNEP工業会との関わりやスケジュールをすべて手帳に書き綴っています。この年には第2回欧州視察に行き、それ以降は運営協議会や委員会、総会などに参加。1989年にはNEP21が発足して2カ月に1回のペースで会合が実施され、北は北海道から南は沖縄まで全国各地を飛び回っていました。NEP工業会の20周年を記念する総会は、博多で開催され、みなさんにお越しいただきましたね。
—海外視察にも多く参加されたのですか。
日本は木の文化。一方、ヨーロッパは石の文化が根づいており、コンクリートの技術が進んでいます。建築物はすべて石材を使い、ブロックで組み立てる方式。ケイコンさんは、これから日本もプレキャスト化をするという先見の明を持ち、積極的に欧州視察を実施されました。会員メンバーが個々でドイツの世界最大の業界専門見本市「bauma(バウマ)」に出かけるきっかけになったのは、欧州視察だと思います。
—特に印象に残っている海外視察はありますか。
1986年の第2回欧州視察です。当時、ヨーロッパは不況の真っただ中で、コンクリート業界でも多くの企業が倒産するなか、生き残った企業の取り組みに感嘆しました。
日本のように生コンを型枠に流し込んで固めるのではなく、生産性の高い即時脱型工法で小さいものから大きなものまですべて成形する様子を見て、技術格差を痛感しました。この工法を日本に普及させたいと思い、オーストラリア製の機械を導入し、即時脱型工法でパイプを造り、十数年間販売したこともあります。当時はインフラ整備が急伸していた時代。歩道のインターロックブロックなど数々のヨーロパの技術を会員企業は取り入れてきました。
—NEP工業会は会員企業の技術向上に大きく貢献してきたのですね。
全国各地には競合他社が存在します。企業規模や技術力の面において、自社のみでは太刀打ちできなくてもNEP工業会が設立されたことでケイコンさんから技術を教わり、お互いに切磋琢磨して地元で対抗できる力を養ってきました。当社もSPブロックと棚板式ウォルコンを強みに国交省から数々の案件を受注することができました。また、ケイコンさんが円形水路という独自の特許技術をもとにNEXCOの工事を受注し、それに付随した仕事を会員各社が受けるネットワークを全国へと広げていったのです。
—NEP工業会の転機はありましたか。
1986年(第15期)ころ、当時の会長である長谷川梅太郎さんが、「NEP工業会を開かれた会にしよう」と転換を考えられました。内輪だけのメンバーでは発展が止まってしまう。いろんな意見を取り入れ、技術研鑽をして新しいものを生み出そうと全国から会員を募りました。ちょうど複数の企業が加わった時期です。このとき、一歩踏み出せたことが今のNEP工業会の発展に繋がっていると思います。
—新しい商品開発もそのひとつでしょうか。
SPブロックとウォルコンに次ぐ新商品開発に力を入れました。NEPアーチをその第一歩にしようと取り組み、私自身、大学の会議室で教授から説明を受けたり、2011年には北アイルランドの工場へ見学にも行きました。画期的な商品にも関わらず、日本は規制が厳しく、これだけの年月がかかるとは思ってもみませんでしたね。商品化は当時副会長であった私の夢であり、実現できたことは本当に嬉しかったですね。
☆NEPアーチという名称は実は下瀬会長の提案で決まりました。
—そのほか、これまでを振り返って思い出に残っている出来事はありますか。
1988年(第17期)、ミルコンの創業60周年記念事業とNEP工業会の総会を合同開催したときのことです。欧州視察のコーディネーターであったドイツ人のシュワルツさんを招聘して記念講演を行うことになり、その通訳を引き受けました。事前に原稿をいただき、前日はホテルに缶詰め状態で翻訳をし、当日を迎えましたが、シュワルツさんは原稿通りに話を進めないんですよ(笑)。終始、冷や汗をかき続けました。
—NEP21では、どのような活動を行っていたのですか。
世代交代を控えた2代目を集めた会をつくりたいと荒川会長に相談して発足した会で、「NEP21」と命名したのは私です。コンクリートだけでなく、社会的な知識を学び、経験しようと各地で会合を開きました。通常の会議であれば建設的に意見を交換しますが、この会は一線を越えたもの。経営者同士が何でも本音で話したので、ここでは言えないことばかりです(笑)。
新潟の置屋で芸妓さんに三味線を習い、その後に座敷で歌や踊りを見ながら食事をしたり。普段できない経験を通じて存分に楽しみ、「また1年頑張ろう」と決意を新たにしました。私はNEP工業会を退会して約3年になりますが、下瀬を囲んで昔話に花を咲かせようという企画-NEP Talk-が持ち上がり、新潟の佐渡島に行ったんです。このような人脈は本当にありがたいですね。
—NEP工業会の魅力について教えてください。
世の中には様々な工業会がありますが、商品のみで繋がり、売り上げを重視する組織が多いように思います。一方、NEP工業会は、材料の調達から技術向上、品質管理などについて協議をし、各社の工場見学も希望をすれば包み隠さずに見せていただける。経営者や技術者などそれぞれの階層が胸襟を開き、会員相互で切磋琢磨する文化が根づいています。現在、会員数は60社以上にのぼり、規模は大きくなりましたが、お互いの関係は当時と何ら変わっていません。私は工業会の中で一番キラキラ光っている組織だと思います。
—最後に、NEP工業会に期待することをお聞かせください。
これからはコンクリート1本では、経営が難しい時代です。世の中の変化に対して、NEP工業会が会員のために何ができるのかを考え、これからも会員ファーストで新しいことに取り組んでほしいですね。個々の会員企業の規模や状況により、すべてを実施できるとは限りませんが、取捨選択をしてビジネスチャンスを掴んでいく。当社も不動産事業など多角化を図っていますが、何事にも貪欲に挑戦してほしいですね。
また、ケイコンさんは月次決算もすべて黒字を達成する優良企業です。単に数字を見るだけでなく、経営の第一線で活躍されている方の生の声やアドバイスを聞くことは、とても参考になります。ケイコンさんと会員企業、会員企業同士が切磋琢磨しながら、次の100年に向けて盤石な体制を築いてほしいと思います。
